有智山城―うちやま―(別名:内山城 少弐城)

所在地:福岡県 太宰府市 内山

(西面を守る二重空堀の外堀)

     −有智山城案内−

(有智山城曲輪跡)

(南面中央付近に残る石垣)

(二重空堀の内堀と土塁)

 

 太宰府(だざいふ)市の北東、宝満山(標高829m)の山腹に竈門(かまど)神社がある。竈門神社は、大宰府造営に伴い、その守護神として天智天皇(てんじ てんのう)が創建したものと云われ、今でも年間を通して参拝客が絶えない観光名所である。その竈門神社から内山集落を経て北谷へと抜ける道を進むと、『有智山城跡』の標識が数ヶ所に設置されている。修験者の山として繁栄していた頃の坊跡『九重ヶ原』付近まで舗装道路が整備され、ここからは徒歩での登山となる。

 

 山中、城跡に至るまでの山道は、削平された斜面を登る緩やかなもので、途中、承天寺別院の山門が建っている。承天寺は、福岡市博多区にある臨済宗の古刹であるが、この別院は閑静な山中に構えられ、非常に趣がある。近年、この承天寺別院境内の土中から石垣や石段等の館遺構が発見され、当城に関するものか坊跡に関するものか検討が進められているそうだ。

 

 

 山門脇からさらに山道を登ると、間も無く城の大手口に達する。一部を石垣で固めた土塁が残り、その内側に並行して見事な大空堀が残っている。大空堀には幅1〜2m前後の土橋が架けられ、両脇に石垣を備えた大手門跡が残っている。門跡横、大空堀に面して見事な土塁が構築され、その内側には再び幅の広い空堀が設けられている。明らかに西の緩斜面を意識した造りで、この二重の空堀は当城の目玉でもある。

 

 大手口から城内に入ると、段をつけて区画した広い曲輪が明確に残り、随所に石垣やその代役を果たした天然岩が残っている。ただ、若木の繁茂が著しく、曲輪内を隅々まで見回すのは困難である。曲輪は東に行く程狭くなり、東端の東福岡幹線22号鉄塔との間には幅20m前後の大堀切と土橋が残っている。そのまま、鉄塔の下を通って宝満山へ登ることも可能だ。

 

 段差をつけて数箇所に区画されてはいるが、基本的に単郭の縄張りで、南北は深い谷をもって城壁とし、東西には守りの要である空堀を設けるといった単純な造りである。むしろ、館と呼んだ方がいいのかもしれない。

     −有智山城史−

(大手口と土橋 奥に土塁が見える)

 

 

(東端の大堀切と土橋)

 建久年間(11901199)、武藤資頼(むとう すけより)が鎮西奉行に任ぜられ、九州に下向してきた。資頼は、筑前(現、福岡県)・肥前(現、佐賀県・長崎県)・豊前(現、福岡県・大分県)・壱岐・対馬の守護職をも務め、後、大宰少弐に任命された。当城が築かれたのはこの頃と思われる。

 大宰少弐を継いだ子の資能(すけよし)は、官職名を取って『少弐』姓を称した。以来、当城は少弐氏歴代の居城となる。

 

 元寇後の弘安5(1282)年、鎌倉幕府は博多に鎮西探題を置き、九州の統治に一層力を入れ始めた。同時に、の築城を少弐氏に勧めることによって、九州における幕府官僚としての立場を保障したと考えられる。これ以後、少弐氏の本拠は、私城としての有智山城と公城としての浦城の2ヶ所が整えられた。

 

 南北朝期、少弐家は大友家と共に北朝方(武家方)に味方した。延元元年・建武3年(1336)には、少弐貞経(しょうに さだつね)守る当城に、南朝方の菊池九郎武敏(きくち くろう たけとし)率いる軍勢が攻め寄せ、落城している。

 

 永享5(1433)年、当主・満貞(みつさだ)が秋月(甘木市)の地で大内持世(おおうち もちよ)に討たれ、少弐一族は対馬に逃れることとなる。この頃には既に大内家の九州侵出が活発化しており、少弐家の衰退が始まったと見ていいだろう。

 

 当主・政資(まさすけ)の時、一時は旧領の奪還に成功するが、間も無く大内勢の侵攻に敗れ、その拠点を肥前国へと移していった。

 それ以来、当城が史上に現れることもなくなってしまった。

2007年1月21日調査

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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