水城―みずき―

所在地:福岡県 太宰府市 国分2丁目  他

(水城跡に残る大土塁 全国的にも珍しい長城形式である)

     −水城案内−

 

 太宰府(だざいふ)市の西端辺りに位置し、現在は国指定特別史跡として保存整備が施されている。

 幅80m・高さ13m前後の大土塁(おおどるい)がおよそ1,2kmに(わた)って現存し、道路や鉄道が貫く箇所も存在するが、かなり良好な状態であると言える。

 

 かつては、この大土塁の外側(大野城(おおのじょう)市側)に幅60m・深さ4m、内側(大宰府(だざいふ)側)に幅10m程の水堀もあったことが判明しており、東西それぞれに城門(礎石が残る)が開けていた。

 

     −水城史−

 

 天智(てんじ)天皇2(663)年、朝鮮半島では百済(くだら)新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)の3国が争っており、百済の援軍としてこの争いに介入した倭国(わこく)(すなわ)ち日本軍は、白村江(はくすきのえ)の戦いで(とう)・新羅連合に大敗を喫してしまう。この勢いに乗じ、唐・新羅連合軍が日本国内に侵攻することを恐れた倭朝廷(やまとちょうてい)は、翌天智天皇3(664)年に水城の築城を開始した。

 

 九州を管轄する大宰府を守るため、当城以外にも大野城(同市)基肄(きい)城(佐賀県三養基郡基山町)等の防衛施設を多く築いており、いずれも古代朝鮮式山城の特色を備えているため、百済の技術者の協力があったことは言うまでも無い。

 結局、日本国内に唐・新羅連合軍が攻め入ることは一度も無く、大宰府が廃された後は荒廃の一途を辿ったと考えられる。

 

2003年9月23日、11月3日、2006年7月30日調査

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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