鷹取山城―たかとりやま―(別名: 鷹取城 高取城)

所在地:福岡県 直方市 永満寺

(鷹取山城跡に残る桝形虎口の石垣)

     −鷹取山城案内−

(鷹取山城本丸跡に残る礎石)

 直方(のおがた)市の東方に高く(そび)える名峰(めいほう)(ふく)()山。その西にあるコブの様な山が鷹取山(標高633m)、筑前(ちくぜん)の名城・鷹取山城跡である。 自動車利用の場合、田川郡福智町側から白雲ラインを経て登山道に入ると良い。

 

 登山道を登ること約20分、屋敷跡を思わせる広い数段の削平地を過ぎて上野(あがの)峠に(いた)る。上野峠は福智山と鷹取山の分岐点(ぶんきてん)となっており、さらに標識に従って鷹取山へ向かう。途中、右手に広大な(くる)()があり、その先の登山道横の尾根上には3段の曲輪と土塁(どるい)堀切(ほりきり)が残っている。さらにその先には、山頂と尾根筋を断ち切る大堀切が現存し、その堀底道から続く南側斜面には巨大な畝状(うねじょう)(たて)(ぼり)群がほぼ完全な状態で残っている。また、北側の斜面上にもかなり大きな畝状竪濠群が現存しており、圧巻である。

 

 鳥野神社(直方市)方面との分岐点を経て、最後の急坂を登りきると、本丸を取り囲む東西65m・南北85m程の曲輪(二ノ丸?)に出る。この曲輪には石垣で固められた桝形(ますがた)虎口(こぐち)遺構(いこう)が南北にあるものの、東西南北全ての斜面が急坂であるため、桝形の外はよく分からなかった。

 

 本丸への入口は西側に開けており、ここも石垣造りの桝形虎口である。山頂の本丸は東西35m・南北40m程の曲輪で、礎石(そせき)群が歴然と残っている。

     −鷹取山城史−

(南側斜面に残る畝状竪濠群)

 永承元(1046)年、長谷川兵部卿吉武の宿老・永井因幡(いなばの)(かみ)宗久(むねひさ)の築城と云われている。興国6(1345)年以来、筑紫(つくし)氏が5代続いて居城としたが、応永6(1399)年2月、菊池武宗(たけむね)に攻略され落城した。

 

 戦国時代は主に毛利兵部少輔(しげ)(ざね)が居城し、一度は大内家に離反するも、以後は大友一筋に臣従した。

 

 慶長6(1601)年、筑前(現、福岡県)52万石の太守として入国した黒田長政(ながまさ)は、当城に家老・母里(もり)()兵衛(へえ)友信(とものぶ)を置き、筑前六支城の一つとした。同年11月、友信は(ます)(とみ)城(嘉麻市)に移ったため、当城には手塚孫大夫展連が入り、元和元(1615)年の一国一城令によって廃城となるまで、福岡黒田藩の支城であった。

自作

2004年12月19日調査

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戻る     ホーム

  

  

inserted by FC2 system